国共内戦において共産党勢力が優勢となり、1949年10月1日に中華人民共和国が成立すると、蒋介石率いる中華民国政府は、中国大陸から台湾に部隊を撤退し始めた。しかし中華民国軍部隊は依然として福建省沿岸に位置する金門島や馬祖島に駐屯していた。中国人民解放軍司 令官は金門島と馬祖島は台湾占領の前に奪取する必要があると考えた。人民解放軍は、大金門島の中華民国守備部隊を2個師団以下と推測し、橋頭堡確保の第一 波上陸部隊に9,000名、第二波に1万名を投入し、3日間で全島占領できると見込んだ。人民解放軍による攻撃は間近いと予想して、中華民国司令官は防御 設備を迅速に建設するように命令した。10月までに、中華民国軍は海岸で上陸部隊を阻止する障害物として7455個の地雷を埋設し、金門島の海岸に概ね200個のトーチカを建設した。金門島の守備隊には、更に多くの防御器材や補給品が送られ、部隊も増強された。1949年10月25日午前2時ごろ、第244連隊、第251連隊、第253連隊を主力とする中国人民解放軍の 部隊は、大金門島の北側の古寧頭、湖尾、壟口に上陸した。第244連隊は、中華民国軍が機関銃や大砲、迫撃砲を集中させていた壟口の側に上陸し、大量の死 傷者を出した。第251連隊と第253連隊は、古寧頭と湖尾近くに上陸し、それぞれ中華民国軍の防衛線を突破、内陸へと侵攻した。満潮になると、人民解放 軍の上陸用舟艇の多くは、海面下に設置された上陸阻止用障害物に捕われ、動けなくなった。干潮になると、それらの上陸用舟艇は、浜に乗り上げ、大陸に戻れ ず、第二波部隊の輸送に支障が生じた。浜に乗り上げた上陸用舟艇は、殆ど木製であったため、間もなく中華民国軍の火炎放射器や手榴弾、燃料による攻撃・放 火や、古寧頭の北西沿岸を哨戒していた中華民国海軍の艦艇2隻の銃撃で破壊された。侵攻する人民解放軍は、中華民国第18軍と第3戦車連隊のアメリカ合衆国製のM3軽戦車に 遭遇した。人民解放軍第244連隊は双乳山の高地を確保したが、早朝までに中華民国の機甲部隊に撃退された。観音山と湖尾高地を確保した人民解放軍第 253連隊も、歩兵部隊や戦車による中華民国軍の反撃を受けて昼までに後退を余儀なくされた。この攻撃には、火炎放射器のほか、迫撃砲と大砲にも支援され ていた。人民解放軍は三方向から攻撃を受けた。人民解放軍第251連隊は中華民国軍の包囲からの脱却を図り、古寧頭の村に入り、林厝で塹壕を掘った。間も なくして第251連隊は大量の死傷者を出すことになる中華民国第118師団とともに中華民国第14師団と第118師団の攻撃を受けた。この日の終わりまで に人民解放軍は湖尾と壟口の橋頭保を失った。1949年10月26日10月26日早朝、人民解放軍第246連隊第4中隊と 第85師団の約1000名は、既に再度湖尾と古寧頭に上陸している人民解放軍を増強するために金門島に上陸した。夜明けに第246連隊は町に立てこもる生 き残った人民解放軍と合流し、古寧頭の村を囲む中華民国軍を突破しようとした。午前6時30分、中華民国第118師団は古寧頭の壟口の人民解放軍に対して 北沿岸に反撃を開始した。戦闘の結果は、途轍もなく血腥いものであり、間もなく古寧頭の通りと路地を市街戦に転じさせた。中華民国空軍の支援で、中華民国軍は結局昼までに壟口を、午後3時には南山を奪取して勝利した。生き残った人民解放軍は、沿岸に後退を開始した。1949年10月27日10月27日早朝までに、残存している人民解放軍は、武器弾薬を使い果たしていた。人民解放軍1300名は古寧頭の北の海岸に退却した。中華民国軍 の最終的な攻撃の後、残りの人民解放軍は、10月27日午前10時に中華民国軍に降伏した。金門島に上陸した人民解放軍全軍が、事実上失われた。