生い立ち[編集]東京市麻布区霞町(現在の港区西麻布)出身。父は麻布区霞町界隈の大工であり、弟が1人いた(八曾男)。家庭は裕福ではなかった。無名エキストラ女優~高級クラブ[編集]15歳だった1955年(昭和30年)、新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(白黒映画)にエキストラ出演。のちに現存する映像によりテレビ番組で紹介されたが、本屋で立ち読み中の制服姿の女子学生役で、引きで撮られておりセリフはなく、姿のみ確認できた。貧しい家計を維持するため東京都立三田高等学校定時制部を中退後、赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働く。1959年(昭和34年)、19歳のときに、インドネシアへの開発援助に伴い「東日貿易の秘書」という名目で、スカルノ大統領のもとに送り込まれた。この一件に当時「昭和のフィクサー」と呼ばれた暴力団関係者の児玉誉士夫が関わっていたとされる。スカルノ大統領夫人[編集]http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c5/Soekarno.jpg http://bits.wikimedia.org/static-1.22wmf18/skins/common/images/magnify-clip.pngスカルノ独立後間もない上に、東西冷戦下にあったインドネシアにおいて、当時スカルノ大統領は日本外交や資金援助の取り付け等を非常に重要視していた。インドネシアに渡って数年は愛人の1人であったが、1962年(昭和37年)にスカルノと正式に結婚、4人の夫人のうちの第3夫人になる。しかし、同時期に実弟の八曾男が自殺し、それを伝え聞いた彼女は「何時までも心を離れない悲しいトラウマになっている」と告白し、後にジャカルタの宮殿の一つに実弟の名をつけた。この宮殿はのちに接収され、軍事博物館になっている。スカルノ大統領失脚[編集]3年後の1965年(昭和40年)9月30日に起きた軍事クーデター、いわゆる9月30日事件でスカルノが失脚、代わってスハルトが大統領となった。スカルノは軟禁状態におかれ、デヴィ夫人はインドネシアの日本大使館に亡命を希望したが、国際的立場上の理由で断念。スカルノの第2夫人を除く夫人は皆、大統領のもとを離れ逃げ切った。1967年(昭和42年)3月11日、都内病院にて娘のカリナを出産する。正式名は「Kartika Sari Dewi Soekarno. Kartika Sari」。スカルノ大統領の8番目の子供であった。デヴィ夫人もフランスへと亡命した。スカルノ元大統領存命中にも関わらず数回の婚約発表が取りざたされたが、結局再婚はしなかった。スカルノ死後[編集]スカルノ大統領はクーデターを予期し、以前よりインドネシアからスイスへ巨額の資金を確保していたとささやかれるものの、1970年(昭和45年)のスカルノ死去時にスカルノ家、ならびにインドネシア政府から財産の相続の権利や子供のスカルノ一族としての地位などを喪失し、第3夫人としての資産は与えられなかったという噂があるが、実際には死去時に遺産が与えられたという説もある。いずれにしてもその後のインドネシア政府の方針により、第3夫人としての遺産分与が行われた。「社交界の華[要出典]」とも呼ばれたその容姿で多くの要人らと関係をもったという。1980年(昭和55年)にはインドネシアへ戻り、石油関連事業を興した[要出典]。しかし、実際にはスカルノ体制崩壊とその後のスハルト政権成立により、元大統領夫人としての外交的立場を失っていたという。また、日本政府や日本の企業財閥側も、クーデターで失脚したスカルノ夫人を擁護することはなかったとされる。1991年(平成3年)にアメリカのニューヨークへと移住する。ここからインドネシアの第一線から退き、その後の政変や第1夫人・第2夫人を中心とした政治の動乱には巻き込まれることもなく、日本に帰国し、現在に至っている。傷害罪で逮捕[編集]1992年(平成4年)1月2日にアメリカ合衆国のスキー・リゾート地、コロラド州アスペンで、セルヒオ・オスメニャ第4代フィリピン大統領の孫娘のミニー・オスメニャ(Minnie Osmena)の顔をシャンパングラスで殴打し、37針縫う大けがを負わせて傷害罪で逮捕され、禁固60日・罰金700ドルの実刑判決が出て、34日間収監される。動機は、数ヶ月前スペインのイビサ島でのパーティに於いて、ミニーが「フィリピン副大統領になる意志がある」と発表し、デヴィ夫人が吹き出したことから2人の関係が悪化したため。後に「刑務所での生活は学生寮のようで楽しかった」と語った。芸能活動[編集]その後日本でタレントとして活躍する。2000年(平成12年)に、有名人の批評等を書いた著書『デヴィのチョット一言よろしいかしら?』を出版した際、音楽プロデューサーの酒井政利がワイドショーで「(様々な)話題にありついて芸能界にパラサイト(寄生)している」と批判、これを知ったデヴィ夫人は激昂し、その結果舌戦を展開した。なおタレント的活動は1970年代より行っており、1974年に小学館の総合男性誌GORO創刊号にヌード写真が掲載されている。2006年(平成18年)10月26日「クイズ$ミリオネア」に2度目の出場をし、1,000万円を獲得した。初の「クイズ番組優勝&1000万円獲得」だった。一般挑戦者の出場廃止後、リニューアル第1号のミリオネアがデヴィ夫人である。浮世離れした人生を送っていたこともあり、「料理が苦手」というキャラクターを生かしたタレント活動の一環として、ゲスト出演したテレビ番組「愛のエプロン」では、鮭のムニエルを作り、ジャッジマン達を絶句させ、またデヴィ自身もそれを食べて「不味い」と言ったこともあった。他にも、庶民の味として知られるカツカレーを一度も食べたことがなかったことや、包丁を自ら握るのも半世紀ぶりならば、揚げ物や焼き物を作るのも初めてだということを告白した。「私は精神・金銭面で独立している。だからテレビに出られなくなっても大丈夫」と答えた。このスタンスが奔放な振る舞いにつながっているようである。新聞の番組欄では、「デビ夫人」と表記されることがある。